写真嫌いの私とカメラ、時々ラムネ
私はカメラが苦手だ。
思い出を切り取ってしまうことが苦手で、形にしてしまうことが嫌いだ。
それでも強いて言うなら、思い出はビー玉だ。
ビー玉といえばガラス瓶で、その二つが合わさればラムネ瓶だ。
ラムネ瓶は美しい。
夏になるとラムネが飲みたくなる。
ラムネを飲むと、思い出してしまうことがある。
運動会におけるカメラのことだ。
かつて、という話になってしまうが、少なくとも私の周りではカメラは身の回りのあらゆるものを撮影するものではなかった。
フィルムだって安くない。
厳選して写真を撮るのが普通であった。
昔の写真を見直しても、皆一列に並びシャッターの瞬間を待つ。
今のように躍動感あふれる自撮りの写真の類を、かつての自分は持っていなかったしその発想もなかった。
あの頃の自分は、少なくとも自炊がうまくいったからと言ってわざわざ押入れからカメラを取り出し写真に収めようなどとしない。
今やスマホでパシャりである。
その事を考えれば、カメラも随分と安くなったもんである。
カメラといえば、運動会だ。
リレーでも組体操でもソーラン節でも、フィルムに収められたものだ。
私はそれが苦痛だった。
カメラの前で、私はうまく笑えない。
加えて、足が速いわけでもない。踊りがうまいわけでもない。
私はカメラから逃げ回った。
学校の先生でも、近くのカメラ屋さんが撮影する時も、極力、顔が正面から映らないように工夫していた。
集合写真ではさすがにそうもいかなかったが、多くの場合は功を奏した。
個人情報に敏感な今の状況は知らないが、学校の行事の後は写真が貼り出されるのが常だった。
そこから自分が購入したい写真を選ぶのだが、カメラから逃げ回っていた私の写真は当然ながらそこにはない。
そのことがまた、私のささやかな喜びでもあった。
ところが、だ。一度だけ、その写真の中に私が混ざっていたことがある。
集合写真ではなく、正真正銘の個人写真で、私にピントが合わされ背景には運動場に掲げられた万国旗がたなびいている。
私の口には、ラムネ瓶が咥えられていた。
油断した。一体どこから狙われていたのかはわからないが、その瞬間を収められてしまったのである。
私は自分の顔が嫌いだった。だから逃げ回っていたのに、後世に残る光の焼きつきとして写真となってしまった。
しかし、私はその写真を直視することができた。
笑っていたからだ。
ラムネを飲んでいる時、私の顔が自然に笑っているということを、その写真から教えられた。
その写真は今も、実家の机の引き出しの中にあるだろう。
友人と飲みに出かける時、写真を撮る流れになることがある。
大人になった今も、その瞬間が苦手だ。
レンズから顔を逸らそうとしてしまう。
どんなに酔っ払っていても、私を笑顔にできるのは、今も昔もラムネだけだ。